〜学校防災出前講座〜

 

≪紀北中学校≫

11月1日(水)、紀北町立紀北中学校主催、 (公財)三重県建設技術センター共催による

「紀北中学校防災講演会 3.11を学びに変える

(一社)スマートサバイバープロジェクト 特別講師 佐藤 敏郎さんお迎えし、

紀北中学校体育館にて開催しました。

当日は、近隣の赤羽中学校の生徒さん、紀北町内からもお越しいただきました。

紀北中学校の全校生徒を対象に「命の大切さ」を語りかけ、熱のこもった防災講演会となりました。

   

 

 

 ≪ 橋北中学校 ≫

 11月2日(木)、津市立橋北中学校主催、(公財)三重県建設技術センター協力のもと、

〜3.11を学びに変える〜」と題し、橋北中学校体育館にて講演いただきました。

 全校生徒に東日本大震災を通じて、命の大切さを語りかけ、心に響く講演となりました。

 講演後、生徒さんからも質問がありました。

 

 

 〜講演内容〜

    宮城県と女川町(グーグルマップより引用)

一昨年まで中学校教諭をされていた佐藤さん。3.11無駄にしない。その想いを胸に講演している。

学校では映画を製作していた。震災時は女川第一中学校に勤務していた。

次の日は卒業式で、3.11は卒業式の準備をしていた。誰一人として地震が来るとは思っていなかった。

災害は日常を襲い、生活を奪う。午後2時46分大きな地震がきて、3時22分港に水位が上がり、14mの大津波がきた。数分後、引き波で家がプラスチックのおもちゃのように流されていった。。そのあとすぐ、次の津波がきて最大43mの津波の跡がある。女川は、平均で20mの津波。二度と会えない人、見れない光景があった。

女川は、津波対策を取っていたが高台にある病院の2,3階まで来た。 女川の被害は、建物8割、人口1割に被害があった。10人に一人が亡くなったという現実。

震災後、芸能人等がきて、その時は嬉しかったが、帰ったら現実が待っている。

それは花束と一緒。もらった時は嬉しいが、花束は枯れてしまう。種を残さないといけない。

≪家族を亡くした中学3年女生徒の絵≫  めちゃくちゃになった女川を書いた。後ろを向いているので、子供達の表情は分からない。子供達の周りにはちぎれた腕、血まみれの人。見たくないものばかりの現実があった。

震災後、女川は4月から学校を再開したが、先生たちはどうやってこの現実に生徒たちを向き合わせるのか悩んだという。その中、5月学校で俳句を作ることになった。佐藤さんは初めは反対したが、何を書いてもいいと生徒に書かせた。すぐに書き始めた生徒たち。

23年5月

@ 故郷を 奪わないでと 手を伸ばす

A ただいまと 聞きたい声が 聞こえない

B 見たことない 女川町を 受け止める

  どんな気持ちを言葉にしたのか。受け入れることはできないが、受け止めることはできる。

C 窓ぎわで 見えてくるのは 未来の町

  瓦礫しかない町をみて、未来の町が生徒には見えたという。

D 夢だけは 奪えなかった 大震災

   この生徒は岩石学者になりたいという夢を持っており、今も大学で勉強している。

E 逢いたくて でも会えなくて 逢いたくて

  母親を亡くした子の句。とても辛そうだった。その日に提出しなかったが、次の日に出してきた。こんなに思いの詰まった句はなかった。

23年11月

@ あの人が 帰ってきてた 夢を見た

    亡くなった人が帰ってきた夢を見た事を書いた子。

A 戻ってこい 秋刀魚の背中に 乗ってこい

   女川は秋刀魚がよく獲れる町。震災で亡くした親友に秋刀魚の背中に乗って帰ってきてほしいという思い。

B 受験生 私の夢を 届けるために

   5月にEの俳句を詠んだ子の句。

24年5月:春風が 背中を押して 吹いてゆく

          何かに背中を押してもらわないと前に進めなかったという。

24年11月:女川の 止まってた時間 動き出す

25年5月 :あったかい 音のする 支援のフルート

           少しずつ回復してきているという感じ

25年11月:家がない やっとわかった そのつらさ

           震災直後は、津波のばかやろうと詠んでいた。段々と分かってきて現実。

本になった子供達の俳句。向き合う、現実悲しみ自分自身。3.11はそんなことの毎日。俳句を詠むことで心のケアにつながった。高校生になった彼らに当時の事を聞くと俳句は説明しなくてよかった、その時の想いを伝えることができたという。俳句を詠むことで一人じゃないんだ、いろいろな人がいてもいいと感じられたという。現実を受け止めることができると前に進める。

前を向き始めた女川の生徒たちは津波について考え始めた。

(震災前)

避難訓練時は、校内放送があり、避難行動を起こしていた。避難経路は体育館の前を通って校庭へ避難することになっていた。

      ↓

震災時)

停電で校内放送が使えなかった。体育館のガラスが割れて通れなかった。

結果、想定の甘さが露見した!

(震災後)生徒たちと先生は考えるようになった。

・失敗する避難訓練を実施した。

   生徒も先生たちも失敗することでどこがダメだったのか、話し合うことが増えた。

話し合うことで、女川は海の町で昔から地震や津波はあったはず。昔の人は今まで地震や津波を伝えて来なかったのかという疑問が出た生徒たちは調べ始めたという。すると、石碑が見つかった。でも、10人に一人の犠牲者が出たということは、石碑は人の命を救えなかった。

昔の人は時間とお金をかけて想いを伝えたかったが、文字が読めなかったりして未来の人に伝わっていなかった。

生徒たちは、千年後の未来に伝えるために。女川の津波到着点の浜21か所すべてに石碑を置くと決め、話し合いを持った。その場に石屋さんを呼び、いくらかかるのかと話し始めた。石は石屋さんが寄付してくれたが、文字を書くのに1千万円かかるという。どうするのかと見ていたら、生徒たちは募金を募り始めた。そして半年後1千万円を集めた。新聞、テレビにも報道された。

生徒に町の誇りは何かと聞くと美しい海だと答えたという。大切なものや人を奪った海を誇りに思う。

防災とは郷土愛、志が育つ。地球との関係づくりが大切だと生徒は教えてくれたという。

東松島市(グーグルマップより引用)

東松島に赴任すると、女川と雰囲気が全く違った。女川は、同じ津波を一緒に見ていたが、東松島はクラスの半分はは家をなくしたりしているのに対し、半分は全然被害がなかったという。そして、大曲中学校は地震があった際は、下校した後のことで、みんなバラバラだった。クラスでは津波の話は触れないようにという事だった。

ある少年は、震災時小学校5年生で家族と小学校へ避難後、たまたま降りた昇降口で避難してきた地域の人5,6名が黒い波に流されるのを見た。少年は「助けて」と手を伸ばされた。でも、手を掴めば自分も巻き込まれると思い、助けられなかった。小学校は1階は水没して体育館は使えなくなった。2、3階が避難所となった。そして、学校が再開したが、あの昇降口から見る風景は変わってしまった。瓦礫の山。昇降口のガラスは割れたまま。そして、目の前で流された昇降口に通い続けた。当時、異臭もあり吐き気がしたという。そんな中、学校内では津波の話に触れないようにということを言われ、違和感を覚えた。でも震災のことは話してはいけないというルールを守った。

ある少女は家族とともに避難して戻ると家も愛犬もいなくなっていた。そして、親友が亡くなったことを知った。友人とは震災前に喧嘩してしまい、仲直りをしなければと思っていた矢先のことだったという。学校が再開して、クラスの雰囲気は津波に触れないようにという空気があり、誰にも話せなかったという。亡くなった友人がもともといなかったような空気に、どんどんネガティブな想いを持つようになってしまったという。

二人は同じ中学に進級して、生徒会で活動することで変わっていった。そして、少年はフォーラムで話したことがきっかけで気持ちが楽になったという。少女は三重県の伊勢市に来て、震災の話をしたことで親友の死を無駄にしない方法が見つかったという。二人は震災のことを話す、語り部になった。あるフォーラムでなぜ語り部をするのか、と聞かれ、少女は、救われた命を未来をつくることに使いたいという思いだけだと答えた。

防災とはあの日を語ること。とても辛いことだが、未来を語ることにつながる。

石碑は16か所まで建てることができた。成人式までに全て建てるのが目標。

3.11は言い訳にしやすいが、足かせではなくこれからどう生きるのかの指針となったという子もいる。

でも、まだまだ苦しんでいる子もいる。

3.12 女川中は卒業式を迎えられなかったが、3.19に卒業できた。

   石巻市 大川小学校(グーグルマックより引用)

3.19は佐藤さんにとって忘れられない日。

佐藤さんには3人のお子さんがいる。3人目のみずほさんは、震災時、小学6年生だった。みずほさんは卒業することができなかった。3.19その日は火葬した日だという。みずほさんが通学していた小学校は大川小学校。

1階建の校舎は今は見るも無残な姿になってしまった。大川小学校は、富士川、北上川の川沿いに建っていた。佐藤さんは、女川で3.13にみずほさんの死を知ることになった。奥さんと息子さんが訪ねてきたのだ。みずほさんの死を知った佐藤さんはあまりのことに涙も出なかったという。佐藤さんは3.14大川小学校に船で向かった。

堤防もなく車が通れる道もなかった。佐藤さんが行くと、ブルーシートに寝かされた小学生の遺体が並んでいたという。みずほさんは、ヘルメットが割れていたそうで、頭を何かで強く打って即死だったようだ。一生懸命泳いで亡くなった子は、腕が上がったままだったという。腕を上げたまま流された子は、服をおらず体には傷が沢山ついていたという。どんなに冷たかっただろうかと。74名の生徒と先生が10名亡くなった。学校の管理下で亡くなったのは大川小学校のみ。前例がない。

佐藤さんは、そっとしていてほしいという気持ちと忘れないでほしいという思いが複雑に交差している。話さなければ曖昧なまま、やがて忘れられる。これは嫌だという思いが強い。命の意味づけ。未来への意味があればと。

大川小学校は、富士川、北上川の川沿いにあった。海から4キロ離れている。地震の後、北上川の水が引いたという。これは大津波がくる予兆。そして3時33分、富士川があふれ、37分北上川があふれた。なぜ大きな川をせき止めたのか。流れてくるのは家や車、土砂などと海岸には松の木が10万本近く生えていたが、津波で全て流れ、橋に引っかかってダムを作った。そして10m以上の水が一気に町を襲った。そして町を巻き込んで渦を巻いたという。数秒で町は消えた。

地震があったあと、津波がくるまでに51分あった。50分、校庭にいて、1分だけ避難して津波に流された。なぜ裏山に逃げなかったのか。6年生は裏山に逃げようと言った子もいたという。町の広報車も、保護者も裏山に逃げろと言ったという。スクールバスの運転手も犠牲になった。手段を知っていた。情報は伝わっていた。にもかかわらず、先生も生徒も亡くなった。裏山に逃げれば助かったのに、なぜ逃げなかったのか。先頭の子供で150m逃げただけ。津波に向かって逃げて、行き止まりの道に入ってしまい、そこで30数名の子供が折り重なるように亡くなった。150m1分間の避難。どんな思いで先生と生徒はいたのか。救えた命、救うべき命、救ってほしかった命、そして先生たちは救いたかった命だという。一番悔しいのは先生たちだと佐藤さんは言う。子供を救いたかったはずだと。先生の命も子供の命も仕方なかったことにしてほしくない。あの出来事を一人一人が自分事にしてほしいと。

救う条件はそろっていた。時間も情報も手段もあった。組織として意思決定できなかった。避難ルート判断ミス。判断と行動が命を救う。

防災マニュアル・訓練は命を守るために使えるのか。想定外の時に役立てなければ意味がない。習慣と信頼を作ることが大事。大川小学校で先生たちが後悔しているのは、1分間の避難ではなく、51分の時間でもない。それより以前がとても大事。

もしもはいつもの中に。大切なことはいつも大切。食事も電気も衣服も、震災のときに急に必要になったのではなく、いつも大事なもの。命にしっかり向き合うこと。 佐藤さんは、生徒一人一人が命だという。一人の生徒だと思っていたという。この子は国語や数学が得意な子ではなく、その前に命だ。命がそこに座って勉強していると思えるようになった。そう思えば、学校も先生も変わるのではないかと思う。

最後に女川で家族を亡くし、子ども達の絵を描いた少女は、女川の瓦礫置き場の壁に花の絵を描いた。6年たって20歳になって絵本を書いた。震災直後、ほほえんでいる絵は描けなかったという。震災後3・4年経ってやっと、かけるようになった。悲しみは消えない。傷は治らない。乗り越える必要はない。でも形を変えることはできる。

大川小学校校舎に入ると子ども達の名前が書かれたシールが今も残っている。このシールは担任の先生が心をこめて  貼ったシールが残っている。だから残っているのかも。

  

         震災前の大川小学校                     震災後の大川小学校

11月2日(木)の 橋北中では、このような感想と質問がありました。

・当たり前のことが当たり前じゃないんだと感じた。震災を他人事じゃなく自分から知ることが大事だと感じた。震災で亡くなった方や辛い思いをした方が望んでいることだと思う。

  彼女は、実際にボランティアとして大川小学校へ行ったことがあるそうで、実際に大川小学校を見ている   そうです。

Q:熊本等で地震で被害が出ているが、どのように感じているのか

A: テレビや新聞などを見て、実際に体験しているので分かるが、報道は小さな窓だなと思う。報道の裏でどんな思いをしているのか、想像しなければいけないと思う。伝える方も受け取る方も見なければならないと、そんなふうに見ています。

 

 〜マスコミ掲載〜

今回の防災講演会、防災講座の様子は、伊勢新聞、紀北新聞、三重タイムズ、中日新聞に取り上げられました。 ※拡大をクリックすると新聞記事が大きく表示されます。

・中日新聞(2017.11.2) 拡大

・伊勢新聞(2017.11.3) 拡大

・紀勢新聞(2017.11.9) 拡大 

・三重タイムズ(2017.11.10) 拡大